今回は「カウンセリング」の害、「問題について語らせることの害」などについて書いてみます
|「カウンセリング」は無害?|
カウンセリングを希望する人に、なんで「カウンセリング」を受けたいのか、と確認すると、「気持ちいいから」とはまず返ってきません。
「カウンセリングには薬物と違って(実物がないから)、副作用(害)がないから」という言葉が返ってくることがしばしばです。
カウンセリングは害(副作用)の危険性だらけですし、これまで書いてきた「誤診の害」と同じく、実物がないだけにその害(副作用)に気づきにくく、害が生じた後に取り除くことはとても困難です。
まず「カウンセリング」が有効である、「カウンセリング」で改善する、と思いこんでしまうことが、すでに害のはじまりなことが多いです。
|「カウンセリング」は有効なのか|
「話せばわかる」とおっしゃったのはかの板垣退助さんですが、板垣さんは暴漢に銃で撃たれてしまいました。
つまりこれは「世界平和(であってほしい!)」という標語と同じく、「話してわかったらいいなあ」という願望を現した言葉であり、現実は「話したってわからない(ことの方が多い)」ということだと思うのです。
多くの場合、語ったところで得られるのはカタルシスによる気分の良さのみである、というのはその1で書きました。
そして、薬物療法が有効な精神疾患であった場合、
精神療法のみで病状が改善することは困難な場合が少なくありません。
治療という場面では、患者さんが望むことと改善のために必要な事は別な場合は少なくありません。
眠れていないで考えがまとまらないで、
仕事も人間関係もうまくいかなくなって悩んだり落ち込んでいる、
そんな人に必要なのは、睡眠薬を使ってでも「とにかく寝る/寝かせる」ことであって、
その悩みを聞くことではありません。
|「カウンセリング」で改善するのか|
メンタルヘルスの領域で、医師による「薬物療法カウンセリング」以外の「カウンセリング」によって起きる効果は「認知の変容」です。
「認知の変容」とは、言い換えれば物事の捉え方を変化させることです。
治療的な「認知の変容」が起きれば苦痛が軽減したり、事態が改善したりすることにつながります。
しかし、反治療的な「認知の変容」が起きれば、症状が固定されたり、長引くのみか、事態が悪化したりすることもあります。
|問題とは記憶である|
その1で、「問題について話すほど問題は大きく重くなる」という側面について少し触れました。
問題について話すことは、「記憶(していること)」について話すことです。
多くの方の認識と異なり、「記憶」は不安定で、変化しやすいものです。
「記憶」はその捉えようよって変化し、固定化することで苦痛は増えることすらあります。
アメリカのPTSDの心理療法で「悪魔的儀式虐待」「回復記憶療法」のような暴走を起こしたことが示すように、記憶は作られるし、人間の記憶は曖昧で嘘をつくものです。
だからこそ、その記憶と体験の意味を再構成するような精神療法には治療力がありますが、それには治療者により、適切な治療対象に対して、適切な治療介入がなされることが必要です。
つまり「うおごころ」も「みずごころ」も必要であって、だれでもやれば良くなるわけではなく、むしろ悪化させる/してしまうことがあります。
|医療機関が薬物療法優先になる一因|
そして、そこに無暗に触れて悪化させるよりは、薬物療法などによって良くなるうちに自然に認知が改善する、またはまず気分や物事の捉え方に余裕ができてから、改めて認知の改善を促していく、というほうが安全かつ簡便です。
それが多くの医療機関で薬物療法優先になる理由です。
「精神療法ができます」「カウンセリングできます」と危険性を見据えることなく患者を弄り回す医師よりは、
「自分は薬物療法しかできない」といってしまう医師の方がまだ誠実です。
そう言いきってはちょっと寂しいですが。
|「カウンセリング」の需要と供給|
なぜ日本で効果的なカウンセリングが広まらないのか、と言ったら、ひとつには、日本には形のないもの、サービスにお金を払う習慣がないから、なのだと思います。
需要と供給の問題、と言い換えても良いと思います。
適切な「カウンセリング」によって改善する状態にあるクライアントが存在したとして、それを生業として商売が成立するほど、そのサービスにお金を払ってくれる人が日本では十分には存在しないのだと思います。
診療報酬制度によって、医療が安く行われすぎていることなども一つの要因でしょう。
もうひとつは、効果的なカウンセリングが行われる関係性には、必要となる前提条件が多すぎるから、だと思うのですが、ちょっときりがないのでここは閑話休題。
今回はここまで。続きます。